“百獣の王”として知られる武井壮(たけい そう)さんは、2003年にゴルフのティーチングプロ資格に合格し、ゴルフ界でも存在感を発揮しています。これまでにもゴルフ番組などに出演し、その腕前や知識の深さが話題になることも。
本記事では、そんな武井さんのゴルフに関する経歴を、スポーツ万能なこれまでの歩みとあわせてご紹介します。
武井壮のゴルフの経歴
武井壮さんがゴルフをはじめたきっかけや、ティーチングプロに合格するまでの経歴についてみていきましょう。
武井壮|20代でアメリカへゴルフ留学
武井壮さんがゴルフの道を志したきっかけは、「ダンロップのアメリカンキャンプ」。世界で活躍するゴルファーを育てる、いわば“エリート養成機関”のような特待生制度でした。
実は、武井さんは大学時代までゴルフ未経験。大学時代には陸上の十種競技で優勝した経歴をお持ちです。それなのにどうしてゴルフに転向?と思いますよね。
きっかけは“現実的な悩み”でした。大学卒業後、実業団の陸上選手としての年俸を知った武井さん。「トップ企業でも800万円くらいか…」と感じていたその頃、同い年のイチロー選手は年俸3億円超。
「同じ“日本一”でも、スポーツが違えばこんなに差があるのか!」と、ふつふつと疑問と野心が湧いてきたそうです。
ちょうどその頃、タイガー・ウッズが世界を沸かせていた時代。「自分の身体を生かしてゴルフをしよう」と思い立ち、武井さんは新たな挑戦に踏み出しました。
そしてなんと、十種競技日本一になってからわずか2〜3か月後、アメリカンキャンプに応募!結果は…特待生合格!しかも全額免除という、まさに“スーパールーキー”扱いです。
1日目の体力測定では、他の参加者の記録を倍以上叩き出して、審査員をポカンとさせ、2日目のゴルフ実技は、前夜の“超一夜漬け”で乗り切るという荒業を披露。なんとも武井さんらしいエピソードですね(笑)
その後、25歳から約3年間、アメリカ・アリゾナ州で本格的にゴルフ留学。スコアを「73」まで伸ばし、プロ目前の実力に。
しかし、世界の壁は想像以上に高かった。それ以上のレベルへ行くのは難しいと痛感した武井さんは、潔くプロの夢を一旦封印します。
とはいえ、心の奥にはこう誓っていたそうです。
「いつか、自分の力で必ずゴルフにリベンジする。」
武井壮さんの“第二章”は、すでにこの頃から始まっていたんですね。
武井壮|30代で芸能界入り|兄の夢を背負って
武井壮さんが芸能界を目指した背景には、深い家族の想いがありました。
その原点は、2歳年上のお兄さんの存在です。
大学生の頃、武井さんは兄を病気で亡くします。
お兄さんは家庭の事情から高校進学を諦め、中学卒業後は俳優を目指して芸能の道へ。芸能人の付き人として現場を支えながら、夢を追い続けていました。
やがて、ドラマ『戦艦ヤマト』などに出演するまでになったお兄さん。しかし、これからという時に、病に倒れ、志半ばで旅立ってしまいます。
その姿を目にした武井さんは、心に誓いました。
「30歳までは自分の夢に全力を尽くす。30歳を過ぎたら、兄の夢を“自分の手で”叶える」
スポーツで日本一になった男が、次に見据えたのは「芸能界」。
武井さんは、芸能界に必要なのは“しゃべりのスキル”だと研究し、芸能人たちが集まるというバーに通い詰め、なんと8年間もトーク術を学び続けたのです。
そして39歳、「百獣の王」というキャッチーなネタとともにテレビに登場。体を張ったエンタメと、どこか哲学的なコメントで一気にブレイクします。
夢を叶えるのに、遅すぎるなんてことはない。武井壮さんの人生は、それを体現してくれていますね。
武井壮|50代でティーチングプロに合格
芸能界でも幅広く活躍を続けてきた武井壮さん。
そんな彼が新たに挑戦したのが、日本プロゴルフ協会(PGA)のティーチングプロ資格です。
そして2023年、ついに実技試験に合格!
なんと50代での快挙。武井さん自身も「嘔吐するほど緊張した」と語っており、並々ならぬ覚悟で臨んだことが伝わってきます。どんなスポーツでも堂々と戦ってきた武井さんですが、ゴルフの試験だけは別格のプレッシャーだったようです。
ちなみに、ティーチングプロとは“ゴルフの技術を教えるプロ”。この資格があれば、ゴルフ場やスクールでの指導はもちろん、個人レッスンなども本格的に行えるようになります。
武井さんは、この資格を足がかりに「トーナメントプレーヤー」の認定にも挑戦する意向を示しています。将来的にはシニアツアーへの出場や、世界の大会を転戦する“旅するゴルファー”としての活動を夢に描いているそうです。
20代の頃、「いつかゴルフにリベンジする」と心に誓った武井壮さん。
その言葉通り、年齢にとらわれず夢に向かって突き進む姿は、多くのゴルファーに勇気を与えています。
“百獣の王”の次なる舞台は、世界のフェアウェイかもしれません!
武井壮のスポーツ歴と学歴(幼少期〜大学時代~ゴルフ留学後)
「百獣の王」は、一日にして成らず。
あの俊敏な動きと鋭いコメントで知られる武井壮さん、実は幼少期からスポーツ漬けの毎日を送っていたのです。
東京都葛飾区で育った武井さんが柔道を始めたのは、なんと3歳のとき。しかも習いごとだけでなく、外遊びでも全力投球。木登り、タイヤ飛び、公園を走り回る…とにかく体を動かすことが大好きな子どもだったそうです。
「筋肉が自分の武器になる」と、子どもながらに感じていたのかもしれませんね。そんな彼の土台は、この時期にしっかりと築かれていたのです。
出身小学校|亀青小学校|武井壮さんの原点
武井壮さんの母校は、東京都の公立校「葛飾区立亀青小学校」です。
小学生になると空手を習い始め、飛び級で十級から二級までトントン拍子に合格。ところがある日、上級者の昇段試験で、先輩が大人と本気の組手をさせられ、強烈な前蹴りで悶絶する姿を目の当たりにします。「あんな痛い思いさせられてまで黒帯はいらない」とサラッと引退。潔さも筋金入りです。
そんな武井さん、走るのも大好き。小学2年の徒競走で負けそうになったことが悔しくて、通学路でのダッシュをストップウォッチで計測しはじめたというから驚きです。でも、ある日こう思ったんです。
「早く走りたいのに、なぜ身体はいう事を聞いてくれないんだろう」
その“なぜ?”を解明するため、聞き込み調査をスタート。体育の先生、大人たち、片っ端から質問したけれど納得できる答えはなし。そんな中、同じマンションに住んでいた日本体育大学のお兄さんの部屋に遊びに行き、もらった教科書が運命を変えます。
小学3年生にして、筋肉・血液・筋の収縮といった体の仕組みを“独学で”学び始め、「自分の身体の中でそんなことが起こってるんだー!」と未知の宇宙の話くらいに面白かったそうです。
しかも、5年生になる頃には、その教科書20冊を全部読破。もう、そこらの小学生とはスケールが違います。
努力の甲斐もあり、走るタイムもグングン向上!まさに“理論派アスリート”の誕生です。
ところが、小6で予想外の展開が…。
お父さんが少年野球チームの監督と勝手に話をつけ、野球を始めることに。学校では“運動神経の塊”と呼ばれていた武井さんですが、隣の小学校のメンバーが多かったチームではなじめず、まさかの「三軍の補欠」。この頃を本人は「暗黒時代」と語っています。
でも、この悔しさも、きっと後の百獣の王の燃料になっていたはずです。
出身中学校|修徳中学校|中学デビューで才能が一気に開花
武井壮さんが進学したのは、東京都の私立「修徳中学校」。全国レベルの野球強豪校として知られ、文武両道を掲げるハイレベルな環境です。
実は、武井さんの家庭は当時かなり苦しい経済状況だったそう。
そんな中、武井さんは「特待生制度」を活用して進学します。中学・高校6年間ずっと成績トップを維持し、学費・入学金はすべて免除。さらに、月1万2千円の奨学金まで受け取っていたのだとか。
「学年1位だったから、ずっとタダだったよ」と、後に語るほどの優等生ぶり。
そして中学校では野球部に入部。
小学生時代は人見知りで力を発揮できなかった武井さんでしたが、今度は違います。クラスメイトと一緒のチームという安心感もあり、入部早々その実力を開花!
なんと、1年生にしてレギュラーの座を勝ち取ります。
ご本人いわく、「中学デビューだね(笑)」
すでに身体の構造や動きの理論を理解していた武井さんは、「体を正しく動かせば、スポーツは失敗しない」という独自の理論を持っていたそう。正しいフォーム、正しい筋力、正しいトレーニング。それらを実践することで、確実に成果を出すという自信があったのです。
実際に、野球部では首位打者として活躍しました。
出身高校|修徳高等学校|独学で身体の研究とトレーニング
中学時代、野球部のレギュラーとして活躍していた武井壮さん。そのままエリート野球人生を突き進むかと思いきや、高校では意外な決断を下します。
進学先はそのまま中高一貫の「修徳高等学校」。全国屈指の野球強豪校としても知られる同校ですが、武井さんはなんと「野球部には入らない」という選択をしたのです。
その理由は、「学費を優先したいから」。
野球部に入れば、ハードな練習で勉強の時間がなくなってしまう。特待生制度を継続し、家計を助けるためには、常に学年トップでいる必要があったのです。
代わりに選んだ部活動は、「地理歴史研究部」。意外にも文系チックなこの部を選びながらも、放課後は別の目的に時間を使っていました。
「部活をやっているやつに負けない。何をやっても成功する身体を作る」
そう決意した武井さんは、地理歴史研究部の活動以外の時間をすべて、自分の身体の研究とトレーニングに注ぎ込みます。筋肉の構造、体の使い方、パフォーマンス向上の方法――。“誰にも教わらないトレーニング”を、ひたすら独学で実践し続けたのです。
表には出ない努力を重ねながら、着実に「百獣の王」の土台を築いていた高校時代。この静かな情熱が、後の驚異的な身体能力と成功につながっていきます。
出身大学|陸上十種競技で日本一に
武井壮さんは二つの大学を卒業しています。
神戸学院大学
高校卒業後、武井壮さんは「神戸学院大学・法学部」に進学。
大学では陸上競技に本格的に取り組み、専門種目は100メートル。持ち前の身体能力を武器に、兵庫県の国体代表に選ばれるまでになります。
そんな中、大きな転機が訪れます。オリンピックメダリスト・朝原宣治さんとチームメイト、しかも同じ部屋で合宿生活を送ることに。
朝原さんが日本記録を叩き出す姿を目の当たりにした武井さんは、ふとこう思います。
「この人には勝てない。なら、自分の得意をもっと広げよう」
そうして彼が選んだのが、陸上十種競技。
100メートル、走り幅跳び、砲丸投げ、高跳び、400メートル…といった10種目を2日間で戦う、究極の“総合力勝負”の競技です。
未経験からの挑戦にもかかわらず、なんと始めてわずか1年で「日本学生選手権・十種競技」で準優勝。
その結果、彼の才能に目をつけた陸上日本代表の強化部長から声がかかり、中央学院大学(千葉)へ“スカウト進学”することに。
中央学院大学
中央学院大学では、日本トップクラスの選手たちと2年半、時に10ヶ月連続でトレーニングを積み上げ、ついに「日本陸上競技選手権大会十種競技」で優勝!
武井壮さんは「日本一」の称号を手にします。
そして――。
すべてをやり切ったその年、武井壮さんは競技生活をスパッと引退。
次に選んだ舞台は、なんとゴルフ留学のためのアメリカ渡航。ここからまた新たな人生がスタートしていくのです。
ゴルフ留学後は野球コーチ、そして芸能界へ
アメリカでのゴルフ留学を終えた武井壮さんが次に目指したのは、なんと台湾プロ野球の世界でした。
「十種競技のチャンピオンなら、走って、跳んで、投げられる。つまり野球にも向いているだろう」そんな異色の経歴が評価され、春季キャンプ限定の特別コーチとしてチームに招かれます。
現地では、プロ選手に対して走り方やウエイトトレーニングを指導。さらに自らも練習に参加し、コーチでありながら一緒に汗を流す“プレイング・コーチ”のような形でグラウンドに立ちました。
帰国後は、萩本欽一さん率いる欽ちゃん球団「茨城ゴールデンゴールズ」のトライアウトに応募し、見事合格。
1年後には極楽とんぼ・山本圭壱さんの草野球チーム「神様」にも参加し、着実に“アスリート×エンタメ”の道を歩んでいきます。
その後、持ち前の身体能力とトーク力を武器に、芸能界デビュー。
武井壮さんは、まさに「夢を次々に乗り換えながら実現していく男」として、唯一無二のキャリアを築いていくのです。
武井壮のゴルフの腕前、ベストスコアは?
十種競技の元日本チャンピオンにして、数々のスポーツを極めてきた武井壮さん。
そんな“百獣の王”が、ゴルフの世界でも驚きのスコアをたたき出していました。
武井さんのベストスコアは「69」。
アマチュアではなかなか届かない70切りを達成しているというから驚きです。
しかも、初めてのラウンドではスコア「100ジャスト」と、ゴルフ未経験者としては非常に優秀なスタート。
さらに2回目のラウンドでは、いきなり99のスコアで“100切り”を達成。その後、100以上叩いたのは初回の1回きりという安定した成績を誇ります。
初ラウンドから“ゴルフ脳”を発揮した武井さんですが、それもそのはず。小学生の頃から「身体をどう動かせば速く走れるか」を自ら研究し、筋肉や動作のメカニズムを理解してきた人。ゴルフにおいても、力任せではなく、理にかなったフォームと再現性でスコアを積み上げてきたのでしょう。
ベストスコア「69」は、まさに“努力と知性の結晶”ともいえる数字ですね。
武井壮のゴルフの経歴まとめ
この記事では、“百獣の王”武井壮さんのゴルフにまつわる歩みをご紹介しました。
- 20代でアメリカにゴルフ留学し、50代で日本プロゴルフ協会のティーチングプロに合格
- ベストスコアは「69」!初ラウンド以外、すべて100切りという実力
- 幼少期から柔道・空手・野球など幅広いスポーツに親しみ、中学野球部ではレギュラーに
- 高校では「地理歴史研究部」に所属しつつ、独学で体の鍛錬と研究を重ねる
- 大学では陸上十種競技で日本一に輝く
- ゴルフ留学後は野球の指導やプレーも経験し、39歳で芸能界デビュー
武井さんは「ゴルフを通じて人とのつながりや新しい挑戦を楽しみたい」と語り、テレビの仕事とゴルフの両立を目指しています。ゴルフ一本に絞らない柔軟なスタンスこそ、武井さんらしいバランスの取れた新たな挑戦と言えるのではないでしょうか。
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