プロゴルファーとして華々しい活躍を見せた諸見里しのぶ(もろみざと しのぶ)さん。
この記事では諸見里プロをジュニア時代から支えてこられた実家のご両親、プロとしての輝かしい経歴、幼少期から現在までの歩みについてご紹介します。
諸見里しのぶの実家の両親はどんな人?
諸見里しのぶプロの故郷は、青い海と緑豊かな自然に囲まれた沖縄県名護市。ゴルフとの出会いは、ゴルフ好きだったご両親の影響で、9歳の頃にクラブを握ったのが始まりでした。
プロ転向後は「両親に少しでもラクをさせてあげたい」という想いを胸にプレーを続け、初優勝の際にはお父様へはベルト、お母様へは財布を贈るという、心温まるエピソードも。さらにプロ4年目には、なんと一軒家をプレゼントするという親孝行を実現させました。
そんな彼女を育てたご両親とは、どんな存在だったのでしょうか?その支えの背景をのぞいてみましょう。
父親はどんな人?
諸見里しのぶプロのお父様については、職業などの詳しい情報は公表されていませんが、彼女のゴルフ人生に深く寄り添ってきた存在であることがうかがえます。
諸見里プロはお父様について、「私のゴルフに一喜一憂しています。そして、いろいろな気付きをくれる存在です」と語っています。
2020年にツアープロとして第一線から退くことを決断したとき、一番伝えるのが怖かった相手はお父様でした。それは、お父様がこれまで本気で彼女のゴルフに向き合い、命をかけるような思いで支えてくれていたことを知っていたからです。
しかし、その報告に対しお父様は「よく決断した、その言葉を聞いて安心したよ」と一言。諸見里プロは、その言葉に肩の力が抜けたと話しています。ずっと心配して見守ってくれていたお父様の、あたたかな愛情が伝わるエピソードですね。
母親はどんな人?
諸見里しのぶプロが「尊敬している」と語るお母様。
試合や練習の日々、いつも手料理で娘を応援し、家庭の味で心と体を整えてくれました。
悪いことをしたら叱ってくれ、頑張ったら褒めてくれる。つらいときは何も言わずに見守ってくれた母、と諸見里プロは話します。そんなお母様の存在が、諸見里プロにとってどれだけ大きな支えだったかは、彼女の言葉の節々からも伝わってきますね。
兄弟姉妹は?
諸見里しのぶプロのご兄弟については、人数などの詳しい情報は公表されていません。
ただ、お兄様が38歳という若さでくも膜下出血により亡くなられたことを、ご本人が明かしています。
まだアマチュアだった頃、遠征費が足りずに困っていた諸見里プロに、お金を貸してくれたのがそのお兄様でした。大きな愛情で妹を支えたその姿は、今も彼女の心に深く刻まれているのでしょう。
「私はこれから、兄のぶんまで強く生きます」
その言葉には、失った悲しみを力に変えようとする、諸見里プロの強さと優しさが込められています。
諸見里しのぶの生涯獲得賞金は?
日本女子プロゴルフ協会のデータによると、諸見里しのぶプロの生涯獲得賞金は約4億9千万円(492,673,562円)にのぼります。
しかし、彼女の収入はそれだけではありません。プロゴルファーにとって重要な収入源のひとつがスポンサー契約。とくに全盛期には、「ダイキン工業」をはじめ、「ブリヂストンスポーツ(クラブ・ボール)」「ジャックバニー(ウェア)」「サマンサタバサ」「GDO(ゴルフダイジェスト・オンライン)」など、名だたる企業が諸見里プロをサポートしていました。
当時の華やかな活躍ぶりが、いかに企業から注目されていたかがうかがえます。なお、各スポンサーとの契約金額の詳細は公表されていませんが、その規模は賞金に匹敵、あるいはそれ以上だった可能性もありそうです。
諸見里しのぶは何回優勝している?
諸見里しのぶプロは国内で通算9勝しています。
年度 | 大会名 | 順位 | 獲得賞金 |
---|---|---|---|
2009 | 日本女子プロ選手権コニカミノルタ杯 \メジャー大会/ | 🏆優勝🏆 | ¥25,200,000 |
2009 | ゴルフ5レディス | 🏆優勝🏆 | ¥10,800,000 |
2009 | CAT Ladies | 🏆優勝🏆 | ¥12,600,000 |
2009 | プロミスレディス | 🏆優勝🏆 | ¥14,400,000 |
2009 | サントリーレディス | 🏆優勝🏆 | ¥18,000,000 |
2009 | ワールドレディスサロンパスカップ \メジャー大会/ | 🏆優勝🏆 | ¥24,000,000 |
2008 | アクサレディス | 🏆優勝🏆 | ¥14,400,000 |
2007 | 日本女子オープン \メジャー大会/ | 🏆優勝🏆 | ¥28,000,000 |
2006 | SANKYOレディースオープン \プロ初優勝/ | 🏆優勝🏆 | ¥10,489,500 |
2005年にプロ入りした諸見里プロは、わずか3試合で翌シーズンのシード権を獲得。2年目の「SANKYOレディースオープン」にて初優勝を果たします。表彰式では、プレゼンターとして登場した志村けんさん」と「アイーン」ポーズを披露し、場を大いに盛り上げました。小さい頃ドリフターズが好きで、なかでも「志村けんさん」が一番好きだったという諸見里プロ。実はこの試合、「志村さんと写真を撮りたい!」という思いがモチベーションだったのだそうです。
翌2006年には「日本女子オープン」で初のメジャータイトルを獲得。同年には「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」を受賞しました。
そして飛躍の年となったのが2009年。
「ワールドレディスチャンピオンシップサロンパスカップ」と「日本女子プロゴルフ選手権大会コニカミノルタ杯」のメジャー2勝を含む、年間6勝を達成。堂々たる実績で賞金女王争いに名を連ねますが、「横峯さくら(よこみね さくら)プロ」にわずか975万円差で惜しくも2位に。
それでもこの年の獲得賞金は1億6526万2708円。例年なら賞金女王に輝いてもおかしくない、堂々たる数字でした。
さらに、同年には史上8人目となる JLPGAメジャー3冠 を達成。まさに女子ゴルフ界の歴史に名を刻みます。
2011年には「スタンレーレディスゴルフトーナメント」で、ハーフ27ストローク(8連続バーディー&1イーグル)という男女ツアー通じての新記録を樹立。この驚異のスコアは、女子プロゴルフ界の ギネス世界記録 にも認定されました。
輝かしいキャリアを誇る諸見里しのぶプロ。その軌跡は、まさに記録と記憶に残るものでした。
諸見里しのぶのツアー撤退|引退ではない
2009年、諸見里しのぶプロは自己最高となる賞金ランキング2位を記録し、その実力と華麗なスイングで注目を集めていました。しかし、その全盛期の輝き以降、彼女は深刻な体調不良に悩まされます。
肋軟骨(ろくなんこつ)の炎症に加え、花粉アレルギーの悪化。「くしゃみをするだけで脇腹に激痛が走る」状態で、薬を服用しながらなんとか試合に出場する日々。けれど、プレーを続けながらの治療は難しく、ついには疲労骨折のリスクを理由に、2016年には休養を決断します。
翌2017年にはツアーへ復帰。しかし結果は厳しく、出場した9試合すべてで予選落ち。2018年には地元・沖縄でホステスプロとして臨んだ「ダイキンオーキッドレディス」で3位タイに食い込んだものの、2019年の「大王製紙エリエール・レディース」を最後に、ツアーからの撤退を表明しました。
撤退の背景には、身体の不調だけでなく、若手選手たちの躍進もあったといいます。「自分に魅力が足りないと感じた」と、素直な胸の内を明かしました。
とはいえ、彼女は「引退」という言葉を使いません。
私がなぜ引退という言葉を使わないかというと、結婚して子供ができた時に、自分がプレーしている姿を見せたいと思う日が来るんじゃないかと思っているからなんです。
もし子供を授かるチャンスがあったら、試合に出たいなと思っています。
出典:yahoo!ニュース
ママゴルファーとして、いつの日かグリーンに戻ってくる。そんな未来を思い描きながら、諸見里しのぶプロは静かに次のステージへと歩みを進めています。
諸見里しのぶの学歴|ジュニアゴルファーからプロ転向までの歩み
小さいころは「鑑識官」や「看護師」に憧れていた少女・諸見里しのぶさんが、ゴルフと出会ったのは小学3年生のとき。
ゴルフ好きのご両親に連れられて練習場に足を運んでいた彼女は、時折クラブを握らせてもらううちに、少しずつその魅力に引き込まれていきました。
「50ヤード飛ばせたらジュースを買ってあげるよ」
「次は100ヤードでお菓子ね」
ささやかな“ご褒美ミッション”に心を躍らせながら、夢中でボールを打っていた諸見里さんは、気づけばゴルフの世界にすっかり夢中に。
ある日、練習場で声をかけられ、ジュニア大会にチャレンジすることに。わずか2ヶ月の練習で挑んだ大会では、結果は真ん中あたり。でも、そのとき彼女の心に火をつけたのは、上位にいたひとりの選手「宮里藍(みやざと あい)さん」でした。
「今、沖縄で一番上手な女の子だよ」
そうお父さんに教えられた瞬間、諸見里さんのゴルフ人生は加速。宮里藍さんに追いつきたい一心で、本格的な練習が始まります。
出身中学|名護市立屋部中学校|ゴルフの先輩は宮里藍
諸見里しのぶさんが進学したのは、地元・名護市の公立校「名護市立屋部(やぶ)中学校」。
中学生3年生になると早くもナショナルチームに選ばれるという快挙を成し遂げますが、そこで待っていたのは、決して甘くない現実でした。厳しい指導に毎回怒られ、合宿前には「もう行きたくない…」と涙をこぼすほど。
そんな彼女をそっと励ましてくれたのは、1歳年上の先輩・宮里藍さん。「頑張ろうね」と手紙をくれたのでした。
諸見里プロは後に「ナショナルチーム」はゴルフしか分からなかった私にとって、多くの事を学べる貴重な機会であり、人生の大きな財産となったと語っています。
中学生時代の主な成績
年度 | 大会名 | 順位 |
---|---|---|
2000 | 日本ジュニアゴルフ選手権競技 女子12歳~14歳の部 | 🏆優勝🏆 |
2001 | 全国中学校ゴルフ選手権 | 🏆優勝🏆 |
出身高校|おかやま山陽高等学校|親元を離れ寮生活
中学卒業後、諸見里しのぶさんは親元を離れ、岡山県にある「おかやま山陽高等学校」へ進学。寮生活をスタートさせました。
はじめての親元離れ。慣れない環境のなかで、家族のありがたみや、陰で支えてくれる多くの人々の存在に気づき、人としても大きく成長したと語っています。
「そのまま沖縄にいたら、プロにはなれていなかったかもしれない」そんな言葉からも、彼女にとってこの経験がどれほど意味のあるものだったかが伝わってきます。
ゴルフの実力もめきめきと頭角を現し、高校時代には輝かしい実績を積み重ねていきます。
中でも印象的なのが「第26回クィーンシリキットカップ」での個人優勝。アジア太平洋地域の強豪選手たちと競い合い頂点に立った経験は、プロを目指す諸見里さんに大きな自信を与えました。
高校時代の主な成績
年度 | 大会名 | 順位 |
---|---|---|
2002 | 中国女子アマチュアゴルフ選手権 | 🏆優勝🏆 |
2002 | 中国ジュニアゴルフ選手権 女子15~17歳の部 | 🏆優勝🏆 |
2003 | 中国女子アマチュアゴルフ選手権(2連覇) | 🏆優勝🏆 |
2003 | 中国ジュニアゴルフ選手権 女子15~17歳の部(2連覇) | 🏆優勝🏆 |
2004 | 全国高等学校ゴルフ選手権春季大会 | 🏆優勝🏆 |
2004 | クィーンシリキットカップ アジア太平洋女子アマチュア招待ゴルフチーム選手権 | 🏆優勝🏆 |
プロテスト一発合格
高校を卒業した諸見里しのぶさんは、2005年7月にプロテストに挑戦します。
試合を見守っていたのは、名コーチ・江連忠さん。その期待を背に、しのぶさんは堂々としたプレーを見せ、見事一発合格を果たしました。
この日を境に、彼女のゴルフ人生は大きく羽ばたきはじめます。そのしなやかで美しいフォームは、多くのファンを魅了し、やがて「美しすぎるスイング」と称されるプロゴルファーへと成長していきました。
諸見里しのぶのコーチ
国内で9勝をおさめた諸見里しのぶプロのコーチについてみてみましょう。
江連忠コーチ
諸見里しのぶさんは中学2年生の頃から、名コーチとして知られる「江連忠(えづれ ただし)さん」の指導を受けています。
きっかけは沖縄で開かれたジュニア向けレッスン会。諸見里さんは、当時テレビで見て知っていた「片山晋呉(かたやま しんご)プロ」に教わりたいと思って参加しました。しかし、お友達とのジャンケンに負け、江連コーチに教わることに。ところが、その出会いが転機に。「もしジャンケンに勝っていたら今の私はいないかも」と、諸見里さんは振り返ります。
江連忠さんは多くのトッププロを育ててきた名指導者で、理論的なスイング指導に定評があります。
中島敏雅コーチ
2016年は諸見里しのぶプロが休養していた年ですが、同年の夏から「ゴルフアカデミー中島」の代表・「中島敏雅(なかじま としまさ)コーチ」の指導を受けはじめます。
一から基礎を見直すことになった諸見里プロですが、その変化に確かな手ごたえを感じていたそうです。
翌2017年、ツアーに復帰するも予選落ちが続きます。しかし、諦めることなく努力を重ね、翌年の「ダイキンオーキッドレディス」では、ホステスプロとして地元・沖縄で堂々の3位タイに。少しずつ、彼女らしいゴルフが戻ってきました。
中島コーチは、数多くのトッププロを育ててきた実力派コーチ。諸見里プロにとっても、再起の支えとなる存在となりました。
諸見里しのぶのwiki風プロフィール|現在の活動は?
諸見里しのぶプロのプロフィールです。
氏名 | 諸見里 しのぶ(Shinobu Moromizato) |
生年月日 | 1986年7月16日(歳) |
出身地 | 沖縄県名護市 |
身長 | 160cm |
ゴルフ歴 | 9歳〜 |
プロ転向 | 2005年 |
ツアーからは引退したものの、諸見里しのぶプロは現在、「解説」や「コースセッティング」といった裏方の仕事でゴルフ界を支えています。
コースセッティングとは、ピンの位置やティーグラウンドの設定、難易度の調整などを行い、試合をより戦略的で魅力的なものにする重要な役割です。
選手としての経験を活かしながら、これからもゴルフ界を盛り上げてくれることでしょう。今後の活躍が楽しみですね。
諸見里しのぶの実家の家族と経歴まとめ
この記事では諸見里しのぶプロについて
- 沖縄県名護市出身。ゴルフ好きのご両親の影響で9歳からゴルフをはじめる。
- 生涯獲得賞金は約4億9千万円にのぼる。
- 2009年には賞金ランキング2位をマーク。
- 2019年にツアー撤退を表明。
- 現在はゴルフ中継の「解説」や「コースセッティング」などでゴルフ界を支えています。
という内容をお届けしました。
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