桂川有人(かつらがわ ゆうと)選手は期待の若手プロゴルファー。
桂川有人選手を一般家庭からプロゴルファーに育てたご家族はどんな人なのでしょうか?シングルマザーのお母様や、ゴルフのきっかけになった祖父とのエピソード、プロゴルファーになるまでの経歴についてお伝えします。
桂川有人の実家の家族構成
桂川有人(かつらがわ ゆうと)選手の実家は、愛知県清須市にあります。
清須市は、織田信長が天下統一への第一歩を踏み出した清洲城で知られる、歴史ある街です。
- 母親 亜紀さん
- 長男 有人選手:本人
ご家族については多くを公表されていませんが、桂川選手はお母様の亜紀さんにより、シングルマザーのもとで育てられました。
兄弟はおらず、ひとりっ子として成長。幼い頃は祖父母と過ごす時間が多く、「おじいちゃん・おばあちゃん子」だったそうです。
祖父の征男さんはゴルフの腕前が高く、シングルプレーヤーとしてクラブチャンピオン(クラチャン)に輝いた経験もあります。
※クラブチャンピオンとは、ゴルフ場で年に一度行われる「クラブ選手権」で優勝した人を指します。
そんな祖父の影響が、桂川有人選手がゴルフを始めるきっかけとなりました。家族の温かな支えと、祖父から受け継いだゴルフへの情熱が、現在の桂川選手を形づくっているのかもしれません。
桂川有人の学歴|ジュニアゴルファーからプロ転向までの歩み
幼少期は祖父母に預かってもらう事が多かった桂川有人(かつらがわ ゆうと)選手。
時々孫を任された祖父・征男さんは、ゴルフの練習がしたくて当時4歳くらいの桂川選手を練習場に連れていきました。
孫にゴルフを教えるというよりは、単なる「子守」だったそうです。シングルプレーヤーだったら月例のために練習したいですものね。
征男さんはレフティ(左利き)なのでふたりで向かい合わせに球を打ち、桂川少年は鏡のようにおじいちゃんのスイングを真似したのだそうです。
ただ、クラブでボールを打つことはすごく面白かったけれど練習場に行くのは土日だけだったので、この時はまだ習い事感覚でした。
出身小学校|清須市立西枇杷島小学校|サッカー部
桂川有人選手は地元の公立校「清須市立西枇杷島(きよすしりつにしびわじま)小学校」で学びました。
小学校の部活動はサッカー部でしたが、月イチはおじいちゃんとゴルフコースをまわっていました。
出身中学|清須市立西枇杷島中学校|バレーボール部
桂川有人選手地元の「清須市立西枇杷島(きよすしりつにしびわじま)中学校」に進学します。
中学では「バレーボール部」に所属する一方で、ゴルフの大会にも出場していました。
当時「ゴルフは楽しい」という気持ちは強かったものの、本気で戦う同世代の選手たちに圧倒されることもあったそうです。今の桂川有人選手からは想像がつかないですね。
ゴルフは費用がかかるスポーツですが、祖父・征男さんは会社員、母・亜紀さんも働いており、家族の支えがあってゴルフを続けることができました。
桂川選手自身も、小学3年生の頃に活躍していた石川遼選手に憧れたものの、インタビューでは「プロゴルファーを目指している家庭でもないし、目指せる家庭でもなかったので趣味程度だった」と語っています。
祖父・征男さんも「アマチュアのほうが楽しいぞ」と話していたそうで、当初はプロを意識していたわけではなかったようです。
プロゴルファーを目指すには、金銭的な負担も大きく、多くのジュニア選手がそのハードルに直面することも事実です。
出身高校|ルネサンス豊田高等学校|フィリピンへゴルフ留学
桂川有人選手が大きな転機を迎えたのは、高校進学を控えていた頃のことです。
ある日、週末に通っていた練習場で桂川選手のプレーを見たフィリピン在住の実業家が「フィリピンにはゴルフ留学に最適な環境があるよ」と声をかけてくれたのです。
その後、実際にフィリピンのメンバーコースに連れて行ってもらった桂川選手は、広々とした練習環境を目の当たりにし、「ここで毎日練習すれば、同世代のトップ選手に追いつける」と強く感じたといいます。
すでにゴルフの強豪校「栄徳高等学校」への進学が決まっていましたが、急遽通信制の「ルネサンス豊田高等学校」に変更し、フィリピン留学を決意。母子家庭の経済的な事情を知っていた桂川選手は、お金のかからないフィリピンでの修業を選んだのです。
母・亜紀さんは「行ってこい!」と力強く背中を押しました。一方で祖父・征男さんは異国での生活を心配しながらも、最終的には孫の夢を信じて送り出したそうです。
こうして桂川選手は高校3年間をフィリピンで過ごします。時には1日12時間にも及ぶ練習をこなし、まさにゴルフ漬けの日々を送りました。留学先では、のちに世界のトッププレーヤーとなる韓国出身の「トム・キム」とも一緒に過ごし、当時は桂川選手の方が上手かったというエピソードも残っています。
このフィリピン留学を通じて、桂川有人選手は「プロゴルファーとして生きていく」と覚悟を固め、大きな成長を遂げていきました。
年度 | 大会名 | 順位 |
---|---|---|
2016 | 愛知県ジュニアゴルフ選手権 | 🏆優勝🏆 |
出身大学|日本大学・ゴルフ部
桂川有人選手はフィリピンから帰国後、多くの名門プロゴルファーを輩出してきた「日本大学」へ進学。ゴルフ部に所属しました。
寮では桂川選手のほか、「清水大成(しみず たいせい)選手」と「木村太一(きむら たいち)選手」の特待生3人が同じ部屋になったそうです。
ベッドが2つしかなく、「床で寝る人をじゃんけんで決めようか」と話していたところ、桂川選手は「僕が床でいいよ」と即座に譲ったという、なんとも微笑ましいエピソードが残っています。
大学時代の清水大成選手と桂川有人選手
出典:ゴルフダイジェスト
桂川選手が日大への進学を選んだ理由のひとつは、「体を鍛えたい」という強い思いでした。フィリピン時代はゴルフの練習に集中していたため、体づくりにはそれほど時間を割けなかったそうです。プロとして世界で戦うためには、より強いフィジカルが必要だと感じ、大学では本格的なトレーニングに励みました。
その努力の結果、現在の桂川有人選手はツアーでも通用するほどのたくましい体格を手に入れ、安定したプレーを見せています。
大学時代には数々の大会で優勝を重ね、その実力を確かなものにしました。
大学時代の主な成績
年度 | 大会名 | 順位 |
---|---|---|
2017 | 朝日杯争奪日本学生ゴルフ選手権 | 🏆優勝🏆 |
2017 | 文部科学大臣杯日本学生ゴルフ選手権 | 🏆優勝🏆 |
2018 | 日本学生ゴルフ選手権競技 | 🏆優勝🏆 |

ナショナルチーム入り
大学時代にはナショナルチームに選抜されます。
当初、2年で中退しプロ転向を考えていた桂川選手ですが、2019年にナショナルチーム入りしたことで大学生を続けることを決めました。
2019年の「ネイバーズトロフィーチーム選手権」では団体・個人の二冠を達成します。
年度 | 大会名 | 順位 |
---|---|---|
2019 | ネイバーズトロフィーチーム選手権 | 🏆優勝🏆 |
2019 | 日本オープンゴルフ選手権競技 \ローアマチュア/ | 23位 T |

プロ転向
2020年、桂川選手はプロ宣言し、プロゴルファーとしての第一歩を踏み出しました。
目標とする選手は、世界のトッププレーヤーである「タイガー・ウッズ」と「大谷翔平」。
その視線は常に世界を見据えており、今後の活躍にも期待が高まりますね。
桂川有人は何回優勝している?
桂川有人(かつらがわ ゆうと)選手はこれまでに通算2勝を挙げ、確実にキャリアを積み重ねています。
プロ転向後の主な成績
年度 | 大会名 | 順位 | 獲得賞金 |
---|---|---|---|
2024 | ISPS HANDA欧州・日本どっちが勝つかトーナメント! | 🏆優勝🏆 | ¥54,483,300 |
2022 | SPS HANDA欧州・日本、とりあえず今年は日本トーナメント! | 🏆優勝🏆 | ¥20,000,000 |
2022年には「ISPS HANDA 欧州・日本 とりあえず今年は日本トーナメント!」で国内レギュラーツアー初優勝を果たし、プロとしての確かな第一歩を刻みました。
その後も経験を重ね、2024年には日欧共催の「ISPS HANDA 欧州・日本どっちが勝つかトーナメント!」で欧州ツアー初優勝を達成。
安定したショットと強いメンタルを武器に実力を証明しました。こちらは日本ゴルフツアー機構のインスタグラムからお借りした投稿です(動画は1分ほど)。
若くして世界へと挑み続ける桂川選手。彼の冷静さと闘志のバランスの取れたプレースタイルは、多くのファンを惹きつけています。今後のさらなる飛躍と、世界のトッププレーヤーたちとの熱い戦いに期待が高まります。
氏名 | 桂川有人(Yuto Katsuragawa) |
出身地 | 愛知県 |
生年月日 | 1998年10月09日(26歳) |
身長 | 167cm |
血液型 | B型 |
ゴルフ歴 | 4歳~(祖父の影響) |
プロ転向 | 2020年10月27日 |
桂川有人の実家の家族・経歴まとめ
この記事では桂川有人(かつらがわ ゆうと)選手について
- お母様が桂川有人選手を育ててきました。
- 兄弟はおらず、ひとりっ子です。
- クラブチャンピオンに輝いた実績をもつ祖父の影響でゴルフをはじめました。
- フィリピンのゴルフ留学をきっかけにプロゴルファーになることを決意。
- 日大ゴルフ部で腕を磨き、2020年にプロ転向。
- ツアー2勝。
という内容をお届けしました。
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